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戸惑いは二秒 煌めきは永遠

推しはひとりしかいない



 また懲りずに、講義中にスマホのメモに向かって鬱々と文字を打ち込んでいる。ノート取りながら。もういい加減ノート取らなくていい講義中にやるべき。というか講義中にスマホやるな。


ともかく今回の話、タイトル通りです。


 推しはひとりしかいない。当たり前だけど、当たり前ではない。

 わたしの推しは二次元にいるので、声をあてている声優さんがいらっしゃるし、先日舞台化も発表されたので、これからは舞台版の推しを演じる俳優さんもこの世にいることになる。お二人とも推しであることには間違いないし、でも、推しではない。だってビジュアル違うし。あくまでも、推しを演じている俳優さんだし(クソおたく並感)。

 だから、演じている方の素の状態のインタビューとか、推しに関連したツイートとかをどう受け取って良いのかわたしは悩んでしまう。

 長いこと二次元のおたくをやっていると、よくこの現象に悩まされる(わたしだけなのかもしれないけど…。)。

 その声優さん俳優さんの話と、わたしにとって唯一絶対の神である公式の推しの見解が大幅にズレてしまった経験は、幸いなことにまだないのだけれど、でもそういうインタビューの記事とか読むと、なんだかもやもやとしてしまう。



わかりやすい例を言うことができないのだけれど、声優さん俳優さんたちが推しを演じてらっしゃる以上、わたしより推しのことを知っているのは確かだ。だけど、声優さん俳優さんが語る推しを、わたしは素直に信じて良いのだろうか?なんて考えてしまう。公式が付ける設定と一緒に並べてもいいの?と考えてしまう。

声優さんも俳優さんも、一応誌面で、きちんと公に発言しているわけだから、それを「違う!」なんて声を荒げて拒絶するのはきっと間違っている、とわたしは思う。でも、公式ではないよね?推しを演じた声優さん俳優さんが、演じた経験を通して感じたことであれば、それは公式の見解とは言い切れない。でもでもじゃあその声優さん俳優さんの言葉って、どこまで飲み込めばいいんだろう?なんか宙ぶらりんだなーって思うんだよね。

わたしは推しに関する公式の情報があればあるほど嬉しいタイプのおたくなので、キャラクターインタビューとかあるとすぐホイホイ買うし読む。

でも、今のジャンル、恐ろしいことに「本編以外の場で個人から語られる情報は半公式であり、たとえ制作スタッフからの情報でも、本編に出るまで公式設定とは呼べない」ことが明言されている。

つまり、公式側の人間から発表された、公に出回る情報は多くあれど、それが完全なる公式の情報とは言い切れないのだ。怖くない?わたしはとっても怖い(明言されているだけマシだと他のジャンルにいる友人に言われたけど…)。

あの雑誌のインタビューの話は続編で出たから公式。あっちの雑誌の対談で言われてた設定は本編と矛盾するから非公式。みたいな。出た情報はいずれ公式の設定になるかもしれないし、ならないかもしれない。信じていた情報が、続編で覆るかもしれない。そしていつか、推しを演じる方たちがぽろっと言った一言が、もしかしたら公式の設定になるかもしれない。それも、わたしがどうしても受け入れられないような解釈上の設定が…。考えただけで恐ろしいなと思う。大げさだね!でもおたくにとってキャラの解釈は死活問題だ。それが推しならなおさら。

推しを演じる方たちの解釈、どこまで信じればいいのかなあ。って、悩んでしまう。


わたしにとっての推しはたったひとりだけど、推しという存在について発信するのは推しじゃない人たちだということが、すごく悩ましい。



 なーーんてここまで堂々巡りなことを悶々と考えてたんですけど、単独ライブの推しの声優さんがもうめっちゃくちゃに推しで、「推しだったらこういうことを言って、こういうパフォーマンスをするんだろうな〜」なんて一ファンのめんどくさ〜い期待を軽々しくぽーんと上回る素晴らしすぎるパフォーマンスを見せてくれたので、なんかもうわたし個人の考えはどうでもよくなってきました。脳みそ溶けた。最高だった。わたしは、世界一の幸せ者だ。この現実に、確かに息づいた推しがそこにいる、と初めて思えたから。演じるってすごい。声優さんすごい。終わり。



10/11文章作成
11/9加筆修正